アフリカ小僧、隠居日録

定年後の日常を、隠居所で気ままに書いてるブログです

中村光夫のフランス滞在記「戦争まで」

 中村光夫は、1988年77才で亡くなった文芸評論家であり、小説家である。小僧の世代だと、彼が「です、ます」体で、評論を書いていたことを覚えている人も多いのではなかろうか。

 

 実は中村は、東大でフランス文学を学び、1938年フランス政府に招かれ留学した、いわゆる「フランス政府給費留学生」であった。通常は、数年滞在するのだが、中村は渡仏した翌年の1939年に、滞仏1年あまりで帰国した。ヨーロッパをはじめとする世界に迫ってきた第二次世界大戦の足音の中で。

 

 本のタイトル「戦争まで」は、こうした事情を反映している。1939年とはどんな年だったのか?小僧はこんな時、岩波書店の机上版「世界史年表」を参照するが、国際関係の欄には、次のような記載がある。

 

 1939年9月1日、独軍、ポーランドに侵攻。第2次世界大戦勃発。

 1939年9月3日、英仏、対独宣戦。

 

 中村が急遽、日本に帰国するための「避難船」に乗船するため、ボルドーに着いたのが、9月3日から10日で、街はすでに各国の避難民で一杯だったと書いている。日本人外交官の家族や長年ヨーロッパに滞在していた根無し草のような日本人で一杯の日本郵船の鹿島丸は、混乱のなかボルドーを出港したようだ。

 

 本書「戦争まで」には、帰国時の大変な様子が描かれているが、一年にわたるフランス滞在は、戦争の影がうかがえるものの、意外にのんびりとした暮らしができたようだ。とりわけ、帰国の年の7月、8月のトウルでの語学研修の様子が、印象的だ。

 

 ロワール川沿いの町、トウルは昔から貴族の館があったせいなのか、「きれいなフランス語」が学べると言われてきた。小僧がフランス語を学んだ1970年代にも、同じようなことを聞いた気がする。中村光夫がひと夏をトウルで過ごそうと考えたのも頷ける。中村はこう書いている。

 

 「夏休みにはトウレエヌのフランス語の純粋さと、ロアル河の風物を大いに宣伝して生徒を集めるわけです」

 「アンスティチュ・ド・トウレエヌ、これがその学校の名です」

 

 フランスの夏は、明るい。秋冬が暗いだけに、夏はどこで過ごしても気持ちがいい。とりわけ、フランスの田舎町でありながら、語学学校、お城、それからなんといっても、辛口の白、サンセールをはじめとする美味いロワールワインがあるトウルの夏は最高だったろうと思う。

 

 第二次世界大戦の前夜、トウルの語学学校にどんな人たちが来ていたか、それは次号で書くことにしよう。

 

 

世界史年表

世界史年表

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