アフリカ小僧、隠居日録

定年後の日常を、隠居所で気ままに書いてるブログです

フランスのアフリカ航空路開拓とサンテグジュペリ

 エールフランスが発足したのは1933年8月だ。この年の2月、日本では築地署で、プロレタリア作家、小林多喜二が虐殺された、そんな時代である。列強大国は、自国の植民地経営に熱中し、さらなる領土拡大に向け衝突していた時代である。

 

 エールフランスは、フランスの中小航空会社五社が合併して発足した。それ以前にも、飛行機野郎たちが命がけで新たな空路を開拓し、維持していた。フランスにとって特に大事な空路は、フランス、北アフリカ、西アフリカ、そして南米を結ぶ航空路である。

 

 当時の飛行機では、重量のある物資は運べないので、郵便や書類を運んでいた。北アフリカ、西アフリカ、そして少し遅れて南米まで、フランス人たちは進出し、本国との間で郵便、書類をやり取りしていた。これを支えていたのが、当時のパイロットたちである。

 

 そのなかの一人に、後に作家となるサンテグジュペリがいた。彼は1926年、26歳の時に、ラテコエール社のパイロットとして、フランス・モロッコ・セネガル間の飛行に従事した。エールフランスが発足する7年前のことだ。アフリカ航空路はある程度開拓されていたが、大西洋を渡る南米空路はまさにトライアルの時代だった。フランス・アフリカ・南米間の空路が定期運航されたは、エアフランス発足後となる。

 

 当時の飛行機は事故も多く、パイロットの死亡事故も多かったようだが、エアフランス発足前にサンテグジュペリの先輩飛行家たちは、南米に翼をつなぐ命がけのチャレンジをしていた。

 

1920年代、フランスは北アフリカ、西アフリカそして南米までの民間航空路を整えようとしていた。

 

 サンテグジュペリはパイロットだけでなく、アフリカの飛行場長としても勤務した。航続距離が短い当時の飛行機は中継基地が必要だったし、機器の不調や事故による不時着も多々あったようである。着陸する飛行機を迎えるだけでなく、砂漠に不時着したパイロットの救出も大事な任務だったようだ。

 

 サンテグジュペリはパイロットとしては、そんなに優秀ではなかったようで、彼は何度か事故を経験している。エールフランス発足後もパイロットしては採用されず、広報宣伝部で採用された。これもまた、神様のお導きか。皆さん、ご存知の1943年発行の「星の王子様」はじめベストセラーを何冊か出すことになる。

 

 パイロットや砂漠の中継地で航空路を支える男たちの話や深い人生の洞察を含んだ名著(と小僧は思っているのだが)、「人間の土地」は1939年発行である。日本の優れたフランス文学者であり詩人でもある堀口大學先生の名訳で読むことができます。

 

 

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